西洋レイキは、ハワイ在住の日系二世、高田はわよ氏から始まります。
高田氏は、ハワイでレイキをを教え、22人のマスターを生み出しています。
ここから、西洋レイキが始まったと言ってよいでしょう。
西洋レイキと日本伝統のレイキの違いは、スタンダードポジションにしたがって手を当てて行くのか、それとも病腺(びょうせん)と呼ばれる身体の悪い場所を感知し、そこに重点的にレイキを送るようにするかの違いです。
つまり、日本伝統のレイキは代替医療として始まったので、目的は癒し(ヒーリング)ではなく、病気や怪我の治療だったのです。
ところが高田氏は、その病腺を探るという手法を弟子たちに教えず、代わりにスタンダードポジションを作って、それに合わせて手を当てていくという手法を教えました。
なぜそうしたのか理由はわかりません。おそらくアメリカの法律によって、レイキが医療行為として認められていなかったためであろうと言われます。
医療行為として使えないとしても、この素晴らしいレイキの技術を後世に残したい。
高田氏のそういう思いが、ヒーリングとしてレイキを伝えるという決断につながったのだと思われます。
高田氏は、臼井氏の直弟子の林忠次郎氏から直接、レイキの指導を受けています。
それは、自身の難病治療のために、1935年に日本へ戻ったことがきっかけになりました。
日本の病院で手術を受けるため手術台に横になっていたとき、高田氏は突然「手術の必要はない」という啓示を受けます。
その不思議な声に驚きつつも自ら手術台を降り、医師に手術以外の治療法はないかと尋ねました。
そこで紹介されたのが、林忠次郎氏だったというわけです。
レイキによる治療を受け始めてから4ヶ月、高田氏は完全に回復しました。
このことが高田氏に、レイキを習いたいという気持ちを起こさせました。
そして林氏に入門を許され、初伝(レイキ1)を受けて1年間ほど、林氏の治療院で働いています。
その後、高田氏はハワイに戻り、レイキの施術を行いました。
そして1938年になって、林氏から師範(マスター)を授けられたのです。
その3年後には太平洋戦争が始まります。アメリカ在住の日系人は、非常に苦労しました。それは高田氏も同じだと思います。
戦後、しばらくの間はレイキの施術の他、目立った活動をされていません。
しかし、70歳後半になったころ、心臓病のために自分の寿命を感じた高田氏は、レイキの後継者を育てる活動を始めます。
こうして80歳で亡くなられる1980年までに、22人の指導者を育成しました。
高田氏の死後、このお弟子さんたちが集まって団体を設立し、レイキの普及を行っていくことになったのです。
当時の欧米はニューエイジブームが起こり、精神世界の書籍が数多く発行されるなど、ヒーリングについての抵抗がなくなっていました。
そういう時代背景もあって、アメリカからヨーロッパへと、レイキが広まって行きました。
西洋レイキが日本に逆輸入されたのは、1980年台です。
アメリカでアチューンメントを受けてティーチャーになったニューヨーク在住の三井三重子氏が、1984年から日本でセミナーを始めたのが最初です。
ただ三井氏は、セカンド・ディグリー(レイキ2)までしか教える資格を持たなかったため、日本人のマスターを増やすことができなかったようです。
その後、ドイツ人のフランク・ペッター氏(奥様が日本人)が、1993年から北海道で、ティーチャー養成までの講座を開きました。
これによって、多くの日本人ティーチャーが生まれ、日本にレイキが広まるきっかけとなりました。
日本に西洋レイキが逆輸入されてから、まだ20年くらいしか歴史がありません。
そういうこともあって、レイキがまだ一般的に知られていないのでしょう。
※ここに書かれている内容は、ウィキペディア「高田ハワヨ」や、ブログで紹介している数冊の書籍を元に書いています。