日本伝統のレイキのその後

臼井甕男(うすい・みかお)氏が始めたレイキは、林忠次郎氏高田はわよ氏と伝わって、西洋レイキとなって日本に逆輸入されました。

ではその間、日本国内のレイキはどうなっていたのでしょうか?

 

敗戦によって日本は、急激に文化の西洋化を迫られることになりました。

その影響で、西洋医療は素晴らしいけど、東洋医療は効果がないなどといった価値観が、国民の間にも浸透していきます。

そして、それまでは何の問題もなくやれていた代替医療も、鍼灸あんまなどのごく一部しか認められなくなりました。

なぜ鍼灸あんまが許されたかというと、これを禁止すると、視覚障害者の職を奪うことになるからだそうです。

GHQが効果があると認めたからではありません。

これにより、レイキによる治療院を開設することができなくなったのです。

 

また、臼井氏が始めた臼井霊気療法学会には、海軍関係者が多くいました。このことが災いしたと推測されます。

海軍関係者が多かったのは、おそらく海軍の意向として、なるべく医薬品を使わない医療を求めていた、という背景があったからだと推測されます。

船に乗って何ヶ月も過ごすのですが、船に無尽蔵に医薬品を蓄えておくこともできませんから。

そういうこともあって、臼井氏のお弟子さんには、海軍関係者が多かったのでしょう。

林忠次郎氏も、海軍大佐にまでなられた方です。

戦後は、軍関係者は公職を追放され、肩身の狭い思いをしています。

そういうこともあって、臼井霊気療法学会は表立った活動をやめ、家族や親族に対してしかレイキを行わないとか、会員の紹介がなければ入会できないなど、固く門戸を閉ざしてしまったようです。

 

しかし、あとになってわかったのですが、臼井霊気療法学会の関係者以外にも、臼井霊気療法を実践して伝えてきた人がいました。

それが山口千代子氏と、その息子の山口忠夫氏です。

特にレイキを広めるという活動はされていませんでしたが、林氏から受け継いだレイキ療法を、そのままに守って来られたのです。

そのことが1999年になってレイキ関係者に知られるようになると、日本の伝統的なレイキを習いたいという声が大きくなりました。

その声に応える形で、山口忠夫氏直傳(じきでん)靈氣研究会を発足させたのです。

2013年時点で直傳靈氣の修了者は、世界30カ国以上、16,000人以上になるそうです。そのうち師範格が900名、師範が250名、大師範が12名です。

このようにして今、西洋レイキが広まっている日本から、逆に伝統のレイキが世界に広まりつつある状況です。

 

※ここに書かれている内容は、ブログで紹介している数冊の書籍を元に書いています。

レイキスクール「香りの森」を主催されている仁科まさき氏は、西洋レイキのマスターであると同時に、直傳靈氣の大師範でもあります。そのため、日本伝統の靈氣と西洋レイキの両方に通じ、レイキの本質に迫る指導ができる指導者の1人と言えます。

西洋レイキの始まり

西洋レイキは、ハワイ在住の日系二世、高田はわよ氏から始まります。

高田氏は、ハワイでレイキをを教え、22人のマスターを生み出しています。

ここから、西洋レイキが始まったと言ってよいでしょう。

 

西洋レイキと日本伝統のレイキの違いは、スタンダードポジションにしたがって手を当てて行くのか、それとも病腺(びょうせん)と呼ばれる身体の悪い場所を感知し、そこに重点的にレイキを送るようにするかの違いです。

つまり、日本伝統のレイキは代替医療として始まったので、目的は癒し(ヒーリング)ではなく、病気や怪我の治療だったのです。

ところが高田氏は、その病腺を探るという手法を弟子たちに教えず、代わりにスタンダードポジションを作って、それに合わせて手を当てていくという手法を教えました。

なぜそうしたのか理由はわかりません。おそらくアメリカの法律によって、レイキが医療行為として認められていなかったためであろうと言われます。

医療行為として使えないとしても、この素晴らしいレイキの技術を後世に残したい。

高田氏のそういう思いが、ヒーリングとしてレイキを伝えるという決断につながったのだと思われます。

 

高田氏は、臼井氏の直弟子の林忠次郎氏から直接、レイキの指導を受けています。

それは、自身の難病治療のために、1935年に日本へ戻ったことがきっかけになりました。

日本の病院で手術を受けるため手術台に横になっていたとき、高田氏は突然「手術の必要はない」という啓示を受けます。

その不思議な声に驚きつつも自ら手術台を降り、医師に手術以外の治療法はないかと尋ねました。

そこで紹介されたのが、林忠次郎氏だったというわけです。

レイキによる治療を受け始めてから4ヶ月、高田氏は完全に回復しました。

このことが高田氏に、レイキを習いたいという気持ちを起こさせました。

そして林氏に入門を許され、初伝(レイキ1)を受けて1年間ほど、林氏の治療院で働いています。

その後、高田氏はハワイに戻り、レイキの施術を行いました。

そして1938年になって、林氏から師範(マスター)を授けられたのです。

 

その3年後には太平洋戦争が始まります。アメリカ在住の日系人は、非常に苦労しました。それは高田氏も同じだと思います。

戦後、しばらくの間はレイキの施術の他、目立った活動をされていません。

しかし、70歳後半になったころ、心臓病のために自分の寿命を感じた高田氏は、レイキの後継者を育てる活動を始めます。

こうして80歳で亡くなられる1980年までに、22人の指導者を育成しました。

高田氏の死後、このお弟子さんたちが集まって団体を設立し、レイキの普及を行っていくことになったのです。

 

当時の欧米はニューエイジブームが起こり、精神世界の書籍が数多く発行されるなど、ヒーリングについての抵抗がなくなっていました。

そういう時代背景もあって、アメリカからヨーロッパへと、レイキが広まって行きました。

西洋レイキが日本に逆輸入されたのは、1980年台です。

アメリカでアチューンメントを受けてティーチャーになったニューヨーク在住の三井三重子氏が、1984年から日本でセミナーを始めたのが最初です。

ただ三井氏は、セカンド・ディグリー(レイキ2)までしか教える資格を持たなかったため、日本人のマスターを増やすことができなかったようです。

その後、ドイツ人のフランク・ペッター氏(奥様が日本人)が、1993年から北海道で、ティーチャー養成までの講座を開きました。

これによって、多くの日本人ティーチャーが生まれ、日本にレイキが広まるきっかけとなりました。

 

日本に西洋レイキが逆輸入されてから、まだ20年くらいしか歴史がありません。

そういうこともあって、レイキがまだ一般的に知られていないのでしょう。

 

※ここに書かれている内容は、ウィキペディア「高田ハワヨ」や、ブログで紹介している数冊の書籍を元に書いています。

レイキの始まり

レイキは1922年、創始者の臼井甕男(うすい・みかお)氏によって始められました。

臼井氏がレイキを始めたきっかけは、人生に悩んで、京都の鞍馬山に登り、断食をしたことに始まります。1922年3月と言われています。

いくら修行しても悟れないもどかしさから、当時の禅の師に相談したところ、「それなら一度死んでごらん」と言われ、死んでもかまわないという固い決意で断食をしたそうです。

断食を始めて20数日が経ったある日、突然、頭の中心部に落雷を受けたような衝撃を感じ、そのまま意識不明になりました。

気がつくと夜が明け始めていて、心身爽快な気分で目覚めたそうです。

そのとき、宇宙との一体感を達成し、求めていた悟りの境地に至ったのです。

 

喜んで鞍馬山を降りていたところ、石にけつまずいて足の指の爪が剥がれ ました。

それで足の指を手で押さえたところ、痛みがなくなり、傷が治ってしまったのだそうです。

また、山のふもとの食堂で食事をしたとき、主人の孫娘がひどい虫歯で頬を腫らしていたのを見て頬に手を当てたところ、たちどころに痛みが引いてしまいました。

このようなことから、何か不思議な力が働いていると気づき、家に帰ってから、家族などを相手にいろいろ試してみたそうです。

いよいよその力が間違いないものだと気付いた臼井氏は、これを臼井霊気療法として、人々の病気や怪我の治療を始めたのです。

また、この力を多くの人に広めようとして工夫を重ね、伝授指導する方法を創り出し、1922年4月に臼井霊気療法学会を設立しました。

翌年には関東大震災が起こり、多くの負傷者が出ました。臼井氏は、その負傷者に対して精力的に治療を行い、多くの人に喜ばれたそうです。

 

※ここに書かれている内容は、ウィキペディア「臼井甕男」や、ブログで紹介している数冊の書籍を元に書いています。