臼井甕男氏が創設

レイキは、1922年(大正11年)4月に、創設者の臼井甕男(うすい・みかお)氏が「臼井霊気療法学会」を設立したことで始まりました。

では、臼井氏はどうやって、レイキを発見したのでしょう?

 

臼井氏はもともと、レイキを見つけようとしていたわけではありません。たまたま見つかったのです。

人生に悩んでいた臼井氏は、禅の師に相談したところ、「一度死んでみなさい」と言われます。

それで、死んでも悟りを得ようと決心した臼井氏は、京都の鞍馬山にこもって断食修行を始めます。

修業に入って20数日経った時、突然、頭に雷を受けたような衝撃を感じて、臼井氏は気を失います。

やがて目覚めると、すでに朝になっていました。その時、臼井氏は、自分が悟ったことを知ったのです。

 

何をどう悟ったのかは明らかになっていませんが、「神即我」という全宇宙との一体化だと言う人もいます。

臼井氏は、その悟りが本物かどうか禅の師に確かめようと、急いで山を降りました。しかし、降りる途中に何かにけつまずき、親指の爪がはがれる怪我を負ってしまいます。

痛さに思わず手を当てました。すると、たちどころにしてその痛みが消え去り、傷が治ったと言います。

またふもとの飯屋で食事をしていると、孫娘と思われる女の子が虫歯か何かで頬を腫らして泣いていました。臼井氏が可哀想にと手を当てると、女の子の頬の腫れが引いて、痛みもなくなったそうです。

このことから何かあると感じた臼井氏が、家族や親族にあれこれ試して、レイキを確立しました。そしてこれを世間に広めようとして、「臼井霊気療法学会」を設立したのです。

 

その後、臼井氏は20人(21人という説も)の師範を育てました。また、関東大震災の時には、同時に5人の患者に施術をするなどし、傷ついた人々を癒しました。5人というのは、両手、両足、そして視線です。レイキは、いろいろなところから出るのです。

臼井氏の精力的な活動もあり、レイキは国内でどんどん広がっていきました。しかし、1926年3月、臼井霊気療法学会を設立して4年足らずで臼井氏は亡くなられました。

わずか4年の活動で、臼井氏はレイキを日本に広めたことになります。

 

臼井霊気療法学会には、海軍関係者が多く在籍していました。海軍が公式にレイキを採用したという資料はありませんが、おそらく軍事利用が目的だったのでしょう。できるだけ積み荷を減らしたいので、医薬品を減らすことができるレイキは、重宝したのだと思います。

しかし、そのことがアダになったと言われていますが、戦後、臼井霊気療法学会は門戸を閉ざし、公の活動をやめてしまいます。GHQから目をつけられたくないという思惑からかもしれません。

そしていつしか、日本でのレイキは下火となり、忘れ去られることになったのです。

海外へ渡るレイキ

実は日本では、まだあまりレイキのことが知られていません。気功の方が有名です。一方、海外(特に欧米)では、意外とレイキの方が知られています。

簡単にそれを知る方法があります。googleなどででレイキや気功を検索してみるやり方です。
これによって、どれだけのWEBページにそのキーワードが使われているかがわかります。

・レイキ:約 3,660,000 件
・靈氣:約 2,640,000 件
・気功:約 3,760,000 件
・reiki:約 45,700,000 件
・qigong:約 7,520,000 件
(googleで検索した結果,2016年7月12日現在)

いかがでしょうか? 特に、海外サイトでは「QIGONG(気功)」よりも「REIKI(レイキ)」が圧倒的に多いことがわかります。

日本で発祥したレイキが、どうしてこんなに海外に広がったのでしょう?

 

レイキを海外に伝えたのは、臼井氏から直接指導を受けて師範となった20人の師範の1人、林忠次郎(はやし・ちゅうじろう)氏です。

林氏が直接外国人に教えたのではなく、その間に、日系二世の高田ハワヨ(たかた・はわよ)氏がおられます。

高田氏は難病を患い、その治療のために日本へ来ました。手術直前に啓示を受け、執刀医に代替医療を尋ねたところ、林氏のレイキを紹介されたのです。

林氏の施術を受けた高田氏は、やがて難病が治ります。レイキの素晴らしさに触れたことで、高田氏は自分もレイキを習いたいと思い、半年間、林氏のもとでレイキを習いながら働くことになりました。

1937年にハワイに戻った高田氏は、最初は伝統的なレイキを施術し、また教えていたようです。対象は主に、ハワイ在住の日系人だったと思われます。その後、日本を再訪して林氏から師範の認定を受けたようです。林氏もまたハワイを訪れ、レイキの指導をされました。

戦後、高田氏はレイキの施術から離れておられたようです。しかし晩年になって、レイキを残したいと思われたのか、1970年以降から亡くなる1980年までの間に、22人のマスターを育てました。このときは、伝統的な代替医療ではなくヒーリングとしてレイキの施術を行い、レイキの指導をされたようです。その指導も伝統的なものではなく、独特なものだったようです。この22人から西洋レイキが始まったのです。

 

その後、アメリカではニューエイジブームとなって、スピリチュアルなものが人気となり、その流行に乗ってレイキも広まったようです。そのため、オーラやチャクラなど、元々のレイキにはなかった概念も付加されています。

アメリカで広まったレイキは、同じ白人圏のヨーロッパにも広まりました。したがって海外でレイキが知られていると言っても、欧米で知られているだけです。中東やアフリカ、アジアでは広まっていません。

西洋レイキと日本の伝統的なレイキの違いは、「治療」を目的とするかどうかにあります。
日本のレイキは治療を目的とするため、「病腺(びょうせん)」とか「ヒビキ」などと呼んで、身体の悪い部分に手が感応することを重視します。
一方の西洋レイキは、手に何かを感じるかどうかは意識せず、スタンダードポジションと呼ぶ特定の場所に決まった時間手を置くことを重視します。

また、レイキで使用するシンボルマントラも西洋レイキの呼び方で、日本のレイキでは印(しるし)呪文(じゅもん)と呼びます。西洋レイキと日本伝統のレイキでは、シンボルの形や、シンボルとマントラの使い方にも大きな違いがあります。また、西洋レイキのシンボルの形や、シンボルとマントラの数は、流派によって微妙に違うことがあるようです。

ただ、レイキのエネルギーそのものは同じものです。考え方の違いはあれ、同じレイキだと言えます。

 

それから、西洋レイキが日本に逆輸入されたのは、1980年台のことです。それまでの間、日本のレイキはすっかり廃れていました。ですから日本人の多くは、レイキの存在そのものを知らなかったのです。

1990年台に、ドイツ人のフランク・ペッター氏が札幌に来て、レイキの師範を育て始めました。このことにより、日本でもレイキが広まり始めました。

ところが、ルーツを求める外国人の働きもあって、日本の伝統的なレイキが、まだ存在していることがわかりました。

まず、臼井霊気療法学会が、まだ存続していました。しかし、ごく身内にしか教えず、施術もしません。ですから、一般人には門戸が開かれていません。
一方、林氏の直弟子で、ずっとレイキを続けてきた山口千代子氏がおられることがわかりました。その子息の山口忠夫氏とともに、直傳靈氣を設立されて、日本の伝統のレイキを広めることになりました。

今、一般の人が日本の伝統的なレイキを習うには、直傳靈氣しかありません。それ以外は伝統的なレイキの一部を取り入れたとしても、西洋レイキの流れを汲んでいると言えるでしょう。