※まず、「ナチュラル・レイキ」が何かをご存じない方は、この前の「ナチュラル・レイキとは」や「レイキが流れるパイプ」を先にご覧くださいね。
「ナチュラル・レイキ」では、「クリーン・アップ・パイプ」というものを行います。これは、西洋レイキにおけるアチューンメント、日本伝統のレイキ(直傳靈氣)における霊授と同じようなものです。
その目的は、人間なら誰にでも備わっているレイキが流れるパイプの汚れを取り除き、きれいにすることにあります。詰まりを取って、レイキを流れやすくすること。それが目的です。
私は、西洋レイキのマスターになり、直傳靈氣の師範格になりました。つまり、アチューンメントや霊授のやり方を知っています。その上で、それらがどういう意味があるのかを合理的に考えた時、要は「大量にレイキを流してやればいい」ことだと気づいたのです。
もちろん、どこに大量に流せばいいのか、ということもありますが、要は大量にレイキを流し、パイプの詰まりを取り除けば良いのです。だって、元々レイキが流れるパイプが備わっているのですから、それ以上のことをする必要性がないでしょう?
もしこれが、新たにレイキが流れるパイプを設置するというなら話は別です。そんなことができるとは思えませんが、そういう機能がアチューンメントや霊授にあると言うのであれば、私の認識は間違っていると言えます。しかし、論理的に考えてみれば、そんなことはあり得ません。
したがって、ともかくレイキを大量に流してやれば、パイプがきれいになってレイキが流れやすくなる、と言えると思うのです。
その証拠は、これまでレイキを習っていない人であっても、「レイキ回し(レイキサークル)」をすることによって、一時的にでもレイキが出るようになる、という事実があるからです。私はこれを何十回と経験しました。
「レイキ回し」というのは、ぐるっと輪になって前の人の背中にレイキをすることです。つまり輪になった電車ごっこみたいな格好ですね。こうすることで、自分の手から出たレイキが前の人に流れ、そのレイキがまた前の人に流れ、という具合にレイキがグルグル回るのです。
これを行うと、間違いなくレイキがよく流れるようになります。そうであるなら、レイキを受けるだけでレイキの流れは良くなるはずです。そして、事実そうなのです。
このようなことから、「ナチュラル・レイキ」では、西洋レイキのアチューンメントや日本伝統のレイキ(直傳靈氣)の霊授という制約の多い方法はやめて、単に大量にレイキを流すという意味での「クリーン・アップ・パイプ」を採用することにしました。
時間は、1人あたり5分程度です。効率良く大量にレイキが流れるので、それによって受け手のパイプがきれいになり、それまでより確実にレイキが流れやすくなります。
もちろん、1回ですべての汚れが取れるとは言いません。感覚的には、3回は受けてほしいと思います。つまり講座を3回受講するということですね。
しかし、パイプをきれいにする作用は、必ずしも「クリーン・アップ・パイプ」だけではありません。パイプが詰まっている時には「クリーン・アップ・パイプ」が効率が良いと思いますが、ある程度レイキが流れるようになれば、もっとも優れているのは「他人に対してレイキをすること」だからです。
自分が他の人にレイキをすることでも、自分のパイプの流れを良くすることができます。さらに、パイプを太くする段階に入ってくると、最良の方法は「他人に対してレイキをすること」です。「クリーン・アップ・パイプ」を受けても効果はありますが、効き目が逆転するのです。
そうやって、自分のパイプの詰まりを取り除き、パイプを太くすることによって、他人に対して大量のレイキを流すことができるようになります。つまり、「クリーン・アップ・パイプ」を効果的に行う能力が育つのです。
もちろんこれも、ある時から急にできるようになるというようなデジタル的なものではなく、アナログ的なものです。したがって、まだ詰まりが取れてない段階からでも「クリーン・アップ・パイプ」を行うことは可能です。(効果は限定的になりますが。)
そして、他人に対して「クリーン・アップ・パイプ」をすることは、「他人に対してレイキをすること」でもあるので、自分のパイプの詰まりを取り除き、パイプを太くする効果もあるというわけです。
これまでのように、マスターになったからできるとか、そういうものではありません。他人がレイキができるよう手伝ってあげたいなら、どんどん「クリーン・アップ・パイプ」をしてあげるべきです。そして、他人してあげたことが自分に返ってきます。自分のレイキのパイプを太くしたければ、他人のレイキのパイプを太くしてあげるのです。
上記のことを念頭に、「ナチュラル・レイキ」では「レイキを流す」ことを主眼とした講座を行っています。そもそもすべての人に備わった本能なのですから、何ら特別なことではありません。歩けるのが当たり前のように、レイキができるのも当たり前なのです。