※まず、「ナチュラル・レイキ」が何かをご存じない方は、この前の「ナチュラル・レイキとは」や「レイキが流れるパイプ」を先にご覧くださいね。
私が推奨する「ナチュラル・レイキ」だけでなく、レイキは愛の行いだと思っています。したがって、愛から外れるなら、その時点でレイキではありません。それが私の考え方です。
では、「愛」とはいったい何なのでしょう? わかっているようで、なかなか説明できない。それが「愛」というものかもしれません。なので、「無条件の愛」という言葉から入ってみましょう。
私たちは、「無条件の愛」という言葉を聞いて、本来の愛とはそういうものだというイメージを持っています。では、私たちが普通に「愛」だと思っている時、条件をつけていないでしょうか? 無条件で愛しているでしょうか?
極論ですが、パートナーが浮気した時、あなたは怒りますか? もし怒るなら、無条件ではないのです。パートナーなら浮気をしないという条件をつけて、愛そうとしています。もし本当に無条件なら、パートナーが浮気しようとどうしようと関係なく、愛せるはずです。
子どもが勉強をしない時、「勉強しないならお小遣いをカットするよ!」と怒る親は、子どもを無条件に愛していません。勉強する子どもは愛するけど、勉強しない子どもは愛さないと言っているのですから。それは条件をつけていることになります。
どうして私たちは、つい条件を付けたがるのでしょう? それは、その条件が満たされないと自分が嫌だ(困る)からです。つまりこれは、自分が都合良くなるために、他人に条件を付けているのだと言えます。でもこれって、「愛」と呼べるでしょうか?
こういうのは「愛」ではなく、「取引き」と呼ぶべきものです。「あなたが○○のことをしてくれたら、私は□□のことをしてあげますよ。」そう言っているのと同じです。「勉強するならお小遣いをあげますよ。」「浮気をしないなら機嫌よくしてあげますよ。」すべて取引きです。愛ではなくビジネスなのです。
どうでしょう? これまでの「愛」の概念が崩れたのではないでしょうか? 「愛」とは無条件ですから、本来「自由」なのです。条件がなければ自由になれますよね。つまり、相手を自由にすること、解放することが「愛」なのです。
もちろん、自分自身も自由であるべきです。そうでなければ、自分を愛しているとは言えません。「常識」など、他人の価値観に引っ張られているなら、それは自由ではありません。自由なら、自分自身の感覚に正直であるべきです。たとえ他の人が何と言おうと、好きなものは好き、嫌なものは嫌でいいのです。
そこでレイキと愛の関係に戻りましょう。レイキは、勝手に流れるものです。「出す」のではなく「出る」ものです。したがって、意図的に何かをするということをしません。こちらの意図がないのですから、相手は流れてきたレイキを自由にできます。レイキのエネルギーをどう使うかは、相手に任されているのです。
もしそこに、「相手の病気を治してあげよう」というような意図が入ったなら、その時点で愛ではなくなります。したがって、レイキではないのです。もちろん、相手を助けたいと思うから手を当てます。でも、それがどう使われるかは相手に任せるというのが、レイキであり愛なのです。
このことは、「必要性」と「好み」という言葉で説明できます。相手の病気を治してあげようとするのは、どちらなのかということですね。もしそれが「必要性」であれば、その必要を感じているのは自分です。つまり、自分の都合で相手の病気を治したいと思っているのであって、相手の気持ちはどうでもよくなっています。相手の病気が治らないと自分が困るから、治そうとしているのです。
しかしそれが「好み」であれば、少し違ってきます。私は、相手の病気が治ってくれることが好ましい。でも、治るかどうかは相手の自由にさせます。これが好みです。治ってくれることが好ましいと思うから手を当てます。しかし、治るかどうかは相手に任せるのです。
このように、レイキは完全に相手任せです。だから、レイキを受けたくないという人に、無理やりレイキをするようなことはしません。相手の自由を尊重するからです。たとえレイキをすれば治りが早くなると思っていても、その自分の意図を相手に押し付けたりはしないのです。
レイキの唯一の弱点は、時間がかかることです。しかし、それこそがレイキの最大の長所だと、私は考えています。誰かのために長い時間寄り添ってあげる。しかも、相手の自由にさせる。つまり、関心を持ちつつも束縛しないのです。これこそが、愛だと思います。その愛を長時間続けるということは、人生の中の多くの時間を愛の実践に費やすことを意味します。
風邪を引いた子どもにとって、薬を飲まされて後は寝てなさいと言われて1人にされることと、お母さんがずっと傍に寄り添って手を当ててくれることと、どっちが嬉しいでしょうね? 嬉しく感じるのは、そこに愛を感じるからです。愛の実践をしなければ、人生にどんな意義があるのでしょう?
マザー・テレサさんは、愛の反対は無関心だと言いました。私もそう思います。だから、関心を持つことが重要なのです。しかし、それだけでは愛ではありません。解放すること、自由にさせることが大切なのです。関心を持ちつつ自由にさせる。それが愛なのだと思います。そしてレイキの真髄は、まさにこの愛。関心を寄せながらも相手の自由にさせることなのです。
また、レイキが愛であり自由であるなら、ああせよこうせよと、やたら制約を加えるようなことはしないはずです。もちろん、こうするとより効果が高まるよということはあるでしょう。でもそれは、単にアドバイスに留まるべきであり、制約にすることはあり得ないのです。
私が提唱する「ナチュラル・レイキ」では、なるべく無用な制約を排するようにしています。やり方はどうでもいいのです。ともかく手を当てて、相手の自由にさせればいいだけ。意図を加えないというのも、相手の自由にさせるためであり、自分が「必要性」を感じないでいるためです。
テクニック的に効果的な方法というものはあるので、それはそれぞれで検証しながら取り入れれば良いというのが、「ナチュラル・レイキ」のスタンスです。その場合でも、「こうしなければならない」ではなく「こうした方がいいよ」くらいの緩やかなアドバイスになります。やり方も押し付けない。そういう愛の立場に立ったレイキなのです。