レイキは授乳と同じ

※まず、「ナチュラル・レイキ」が何かをご存じない方は、この前の「ナチュラル・レイキとは」「レイキが流れるパイプ」を先にご覧くださいね。

 

レイキのことを考えていたら、ふと降りてきました。

「レイキは授乳と同じだ!」

 

どういうことかと言うと、赤ちゃんはお母さんのおっぱいを吸って飲みます。そのお乳の栄養が、赤ちゃんの生存や成長を助けるのです。

しかし、もし赤ちゃんがおっぱいを吸わなかったらどうなるでしょう? いくらお母さんがお乳をあげたいと思っても、吸ってくれなければあげることができません。

つまり、授乳というのは、お母さんはただ傍に寄り添って、おっぱいをあてがっているだけなのです。そのおっぱいからでるお乳を吸って自分の生存や成長に役立てているのは赤ちゃん自身。つまり、赤ちゃんの自由なのです。

 

これって、レイキと同じですよね? そのことに気づいたのです。

レイキは単に、傍に寄り添って手を当てるだけです。相手(自然治癒力)がレイキを必要とすれば、それを吸ってくれるでしょう。でも必要でなければ、拒否するだけ。その拒否すら認めるのがレイキなのです。

 

それともう1つ一致点があります。お母さんは、赤ちゃんがおっぱいを吸ってくれると「気持ちいい」と感じるようです。(私は男なのでよくわかりませんが。)レイキも同じなのです。

手を当てた時、そこが勢い良くレイキを吸ってくれると、とても気持ちいいのです。「あー、レイキがたくさん吸われているなぁ。」という感じがして、とても心地よいものです。

こういうのは、レイキを長くやっていれば、誰でも感じるものです。相手の生命の助けになったという満足感、自分が役に立っているという自己肯定感など、様々な喜びが湧いてきます。

たとえ施術は1時間と決めていても、勢い良く吸われている時は、「あーこの手を離したくない!」という欲求に襲われます。それくらい、恍惚(こうこつ)とした気持ちになるのです。

 

この恍惚感は、おそらく母親の授乳と同じなのではないかと、ふと思いました。いかがでしょうか? ぜひ、授乳をされたお母さんのご意見を伺えればと思います。

愛と安心立命

※まず、「ナチュラル・レイキ」が何かをご存じない方は、この前の「ナチュラル・レイキとは」「レイキが流れるパイプ」を先にご覧くださいね。

 

前回、「レイキは愛」という話をしました。ここで、本当の愛は「無条件」だから「自由」だということを言っています。「愛は自由だ」というのは、これまでのみなさんの概念を覆すものだと思っています。でも、「無条件の愛」を考えていけば、自由でなければおかしいのです。

愛には、また別の側面があります。それが「安心」だと思います。私たちは無意識に安心を求めます。それは、愛を求めているからでもあるのです。そして、安心していられれば、相手を自由にさせられます。自分も自由になれます。愛は自由であると同時に、安心でもあるのです。

 

レイキを創設された臼井甕男氏は、「安心立命(あんじんりゅうめい)」という悟りの境地に至ろうとして、京都の鞍馬山で断食修行をされました。その中で特異体験を通じて、「神即我、我即神」という悟りを得て、山を降りられたそうです。その途中で何かにけつまずいて、親指の爪がはがれる大怪我をされました。思わず手を当てたところ、たちどころに痛みが引いて傷が癒えたと言われいます。

これがレイキ(心身改善臼井靈氣療法)が生れた時のエピソードです。このことから言えるのは、レイキは何の意図もせずに手を当てることで効果を発揮するということです。また、レイキと悟りに至ることは大きく関係しているということです。

安心立命の境地とは、何があっても安心していることです。安心した中で、自分がやろうと感じることを躊躇なく行うことができることです。これはつまり、愛そのものになることだと言えます。

また、神と自分は一体だという悟りを得られたと言われます。これは昔から多くの人が悟られたことなのですが、要は、自分は宇宙から切り離された存在ではなく、一体なのだという感覚です。宇宙とは、存在のすべてのことです。存在のすべてと一体化しているのであれば、何かが足りないということはありません。何かをしなければならないということもありません。だから、安心していられます。

 

このような境地を得るために、レイキには「五戒」というものがあります。「今日だけは、怒るな、心配す(る)な、感謝して、業を励め、人に親切に」という教えです。怒らないし心配しないのは、安心しているからです。つまり、愛にとどまっているからです。

では、「怒る」ということを考えてみましょうか。怒るのは、相手を脅して何かをさせたいからですよね? なぜ、そうまでして相手を動かさなければならないのでしょう? それは、相手がそうしてくれないと、自分が困ったことになるからです。安心できないからです。

「心配」ということも考えてみましょう。心配するのは、そんなことになったら自分が困ると感じて混乱するからですよね? 心配したからと言ってどうなるわけでもないのに、心配を続けたりもします。どうにもならないけど何とかなってほしい。そうでないと自分が困ってしまうと感じています。これも安心していないのです。

 

では逆に、「安心」していたらどうなるでしょう? 相手が変わって、自分の思い通りに動いてくれるのでしょうか? これまで心配していたことが起こらないのでしょうか? そんなことはありません。やはり相手は好き勝手に動くし、不都合なことも起こるでしょう。つまり、そういうことが起こってもかまわないと受け入れた時、初めて安心できるのです。

神が存在のすべてなら、存在のすべてにとっては何が起ころうと不都合でないと言えるでしょう。その存在のすべてと一体化しているのが自分であると感じていたら、自分もまた不都合ではないと感じられます。それが悟りであり、安心であり、完全な愛になることなのです。

レイキは、そういう完全な愛に至るための実践です。ですから、「愛」「自由」「安心」というキーワードを無視したものは、本当のレイキではないのです。「ナチュラル・レイキ」がしたがうのは、この本質的な考え方のみです。それを目指すものであれば、方法は人それぞれでかまわない。そういうふうに考えています。

レイキは愛

※まず、「ナチュラル・レイキ」が何かをご存じない方は、この前の「ナチュラル・レイキとは」「レイキが流れるパイプ」を先にご覧くださいね。

 

私が推奨する「ナチュラル・レイキ」だけでなく、レイキは愛の行いだと思っています。したがって、愛から外れるなら、その時点でレイキではありません。それが私の考え方です。

では、「愛」とはいったい何なのでしょう? わかっているようで、なかなか説明できない。それが「愛」というものかもしれません。なので、「無条件の愛」という言葉から入ってみましょう。

私たちは、「無条件の愛」という言葉を聞いて、本来の愛とはそういうものだというイメージを持っています。では、私たちが普通に「愛」だと思っている時、条件をつけていないでしょうか? 無条件で愛しているでしょうか?

 

極論ですが、パートナーが浮気した時、あなたは怒りますか? もし怒るなら、無条件ではないのです。パートナーなら浮気をしないという条件をつけて、愛そうとしています。もし本当に無条件なら、パートナーが浮気しようとどうしようと関係なく、愛せるはずです。

子どもが勉強をしない時、「勉強しないならお小遣いをカットするよ!」と怒る親は、子どもを無条件に愛していません。勉強する子どもは愛するけど、勉強しない子どもは愛さないと言っているのですから。それは条件をつけていることになります。

どうして私たちは、つい条件を付けたがるのでしょう? それは、その条件が満たされないと自分が嫌だ(困る)からです。つまりこれは、自分が都合良くなるために、他人に条件を付けているのだと言えます。でもこれって、「愛」と呼べるでしょうか?

こういうのは「愛」ではなく、「取引き」と呼ぶべきものです。「あなたが○○のことをしてくれたら、私は□□のことをしてあげますよ。」そう言っているのと同じです。「勉強するならお小遣いをあげますよ。」「浮気をしないなら機嫌よくしてあげますよ。」すべて取引きです。愛ではなくビジネスなのです。

 

どうでしょう? これまでの「愛」の概念が崩れたのではないでしょうか? 「愛」とは無条件ですから、本来「自由」なのです。条件がなければ自由になれますよね。つまり、相手を自由にすること、解放することが「愛」なのです。

もちろん、自分自身も自由であるべきです。そうでなければ、自分を愛しているとは言えません。「常識」など、他人の価値観に引っ張られているなら、それは自由ではありません。自由なら、自分自身の感覚に正直であるべきです。たとえ他の人が何と言おうと、好きなものは好き、嫌なものは嫌でいいのです。

 

そこでレイキと愛の関係に戻りましょう。レイキは、勝手に流れるものです。「出す」のではなく「出る」ものです。したがって、意図的に何かをするということをしません。こちらの意図がないのですから、相手は流れてきたレイキを自由にできます。レイキのエネルギーをどう使うかは、相手に任されているのです。

もしそこに、「相手の病気を治してあげよう」というような意図が入ったなら、その時点で愛ではなくなります。したがって、レイキではないのです。もちろん、相手を助けたいと思うから手を当てます。でも、それがどう使われるかは相手に任せるというのが、レイキであり愛なのです。

 

このことは、「必要性」「好み」という言葉で説明できます。相手の病気を治してあげようとするのは、どちらなのかということですね。もしそれが「必要性」であれば、その必要を感じているのは自分です。つまり、自分の都合で相手の病気を治したいと思っているのであって、相手の気持ちはどうでもよくなっています。相手の病気が治らないと自分が困るから、治そうとしているのです。

しかしそれが「好み」であれば、少し違ってきます。私は、相手の病気が治ってくれることが好ましい。でも、治るかどうかは相手の自由にさせます。これが好みです。治ってくれることが好ましいと思うから手を当てます。しかし、治るかどうかは相手に任せるのです。

このように、レイキは完全に相手任せです。だから、レイキを受けたくないという人に、無理やりレイキをするようなことはしません。相手の自由を尊重するからです。たとえレイキをすれば治りが早くなると思っていても、その自分の意図を相手に押し付けたりはしないのです。

 

レイキの唯一の弱点は、時間がかかることです。しかし、それこそがレイキの最大の長所だと、私は考えています。誰かのために長い時間寄り添ってあげる。しかも、相手の自由にさせる。つまり、関心を持ちつつも束縛しないのです。これこそが、愛だと思います。その愛を長時間続けるということは、人生の中の多くの時間を愛の実践に費やすことを意味します。

風邪を引いた子どもにとって、薬を飲まされて後は寝てなさいと言われて1人にされることと、お母さんがずっと傍に寄り添って手を当ててくれることと、どっちが嬉しいでしょうね? 嬉しく感じるのは、そこに愛を感じるからです。愛の実践をしなければ、人生にどんな意義があるのでしょう?

 

マザー・テレサさんは、愛の反対は無関心だと言いました。私もそう思います。だから、関心を持つことが重要なのです。しかし、それだけでは愛ではありません。解放すること、自由にさせることが大切なのです。関心を持ちつつ自由にさせる。それが愛なのだと思います。そしてレイキの真髄は、まさにこの愛。関心を寄せながらも相手の自由にさせることなのです。

 

また、レイキが愛であり自由であるなら、ああせよこうせよと、やたら制約を加えるようなことはしないはずです。もちろん、こうするとより効果が高まるよということはあるでしょう。でもそれは、単にアドバイスに留まるべきであり、制約にすることはあり得ないのです。

私が提唱する「ナチュラル・レイキ」では、なるべく無用な制約を排するようにしています。やり方はどうでもいいのです。ともかく手を当てて、相手の自由にさせればいいだけ。意図を加えないというのも、相手の自由にさせるためであり、自分が「必要性」を感じないでいるためです。

テクニック的に効果的な方法というものはあるので、それはそれぞれで検証しながら取り入れれば良いというのが、「ナチュラル・レイキ」のスタンスです。その場合でも、「こうしなければならない」ではなく「こうした方がいいよ」くらいの緩やかなアドバイスになります。やり方も押し付けない。そういう愛の立場に立ったレイキなのです。