愛と安心立命

※まず、「ナチュラル・レイキ」が何かをご存じない方は、この前の「ナチュラル・レイキとは」「レイキが流れるパイプ」を先にご覧くださいね。

 

前回、「レイキは愛」という話をしました。ここで、本当の愛は「無条件」だから「自由」だということを言っています。「愛は自由だ」というのは、これまでのみなさんの概念を覆すものだと思っています。でも、「無条件の愛」を考えていけば、自由でなければおかしいのです。

愛には、また別の側面があります。それが「安心」だと思います。私たちは無意識に安心を求めます。それは、愛を求めているからでもあるのです。そして、安心していられれば、相手を自由にさせられます。自分も自由になれます。愛は自由であると同時に、安心でもあるのです。

 

レイキを創設された臼井甕男氏は、「安心立命(あんじんりゅうめい)」という悟りの境地に至ろうとして、京都の鞍馬山で断食修行をされました。その中で特異体験を通じて、「神即我、我即神」という悟りを得て、山を降りられたそうです。その途中で何かにけつまずいて、親指の爪がはがれる大怪我をされました。思わず手を当てたところ、たちどころに痛みが引いて傷が癒えたと言われいます。

これがレイキ(心身改善臼井靈氣療法)が生れた時のエピソードです。このことから言えるのは、レイキは何の意図もせずに手を当てることで効果を発揮するということです。また、レイキと悟りに至ることは大きく関係しているということです。

安心立命の境地とは、何があっても安心していることです。安心した中で、自分がやろうと感じることを躊躇なく行うことができることです。これはつまり、愛そのものになることだと言えます。

また、神と自分は一体だという悟りを得られたと言われます。これは昔から多くの人が悟られたことなのですが、要は、自分は宇宙から切り離された存在ではなく、一体なのだという感覚です。宇宙とは、存在のすべてのことです。存在のすべてと一体化しているのであれば、何かが足りないということはありません。何かをしなければならないということもありません。だから、安心していられます。

 

このような境地を得るために、レイキには「五戒」というものがあります。「今日だけは、怒るな、心配す(る)な、感謝して、業を励め、人に親切に」という教えです。怒らないし心配しないのは、安心しているからです。つまり、愛にとどまっているからです。

では、「怒る」ということを考えてみましょうか。怒るのは、相手を脅して何かをさせたいからですよね? なぜ、そうまでして相手を動かさなければならないのでしょう? それは、相手がそうしてくれないと、自分が困ったことになるからです。安心できないからです。

「心配」ということも考えてみましょう。心配するのは、そんなことになったら自分が困ると感じて混乱するからですよね? 心配したからと言ってどうなるわけでもないのに、心配を続けたりもします。どうにもならないけど何とかなってほしい。そうでないと自分が困ってしまうと感じています。これも安心していないのです。

 

では逆に、「安心」していたらどうなるでしょう? 相手が変わって、自分の思い通りに動いてくれるのでしょうか? これまで心配していたことが起こらないのでしょうか? そんなことはありません。やはり相手は好き勝手に動くし、不都合なことも起こるでしょう。つまり、そういうことが起こってもかまわないと受け入れた時、初めて安心できるのです。

神が存在のすべてなら、存在のすべてにとっては何が起ころうと不都合でないと言えるでしょう。その存在のすべてと一体化しているのが自分であると感じていたら、自分もまた不都合ではないと感じられます。それが悟りであり、安心であり、完全な愛になることなのです。

レイキは、そういう完全な愛に至るための実践です。ですから、「愛」「自由」「安心」というキーワードを無視したものは、本当のレイキではないのです。「ナチュラル・レイキ」がしたがうのは、この本質的な考え方のみです。それを目指すものであれば、方法は人それぞれでかまわない。そういうふうに考えています。